突然ですが、弱い者苛めって、卑劣で卑怯な行為だと想いませんか?

 テレビ番組、「あるある大事典」ですか、データ捏造事件に関して、テレビ局に抗議が殺到しているそうですね。
昨年末の紅白歌合戦でも、珍事が起こり抗議が殺到したそうですね。

 抗議が殺到する、その心理は解る。でも、私はそれを、余りにも醜悪過ぎて正視できない。

 所謂「事件或いは事故」が起こった時点で、TV局に対して「こんなことが起こっている」と通報することは、正当な行為だと想う。また、その瞬間に感情的なモノに寄って抗議することも、私に納得できる範疇だ。

 奇しくも年明けて今月中に、延々ダラダラと、両テレビ局に連日抗議の電話が殺到しているのは、ひと言で斬ってしまえば、「反論できない立場の相手を言葉で苛めて自己のストレスの捌け口にする」行為以外の何ものでもないでしょう?
これは邪推でしかないが、未だにダラダラと抗議電話を掛けてくる奴等なんて、絶対に無関係の痴者どもだと思うよ。
 一般視聴者と云う奴等が、今回取り上げた両事件に関して、どんな「実害」を受けていると云うのか。私には、解らない。
一部、納豆生産業者や小売業者などで実害を受けたという立場もあるだろうが、それとて一時のまさにバブル的な売り上げ増でペイされるようなものではないのか。それでもなお、実損があるというなら、彼等は訴訟を起こせばいい。
何時までもグダグダと抗議の電話をかける奴等は、性質の悪いクレーマーでしか在り得ないのだ。

 人間は、自らの行為の美醜について、鈍感であってはならない。

*「あるある」の件については、軽々しくテレビの情報で踊らされた人間こそ、私は憐れに想うけれど。
 昨年末のFinals以降、「あだると」と云う検索ワードでこのブログに跳んで来る方が多い。

 ひとえに、「あだると・たいむ」と云うタイトルで書いた、Finals前夜に五反田で呑んだ時の日記の所為なのだが、なんと云うか、こう、跳んで来る方々の期待を裏切って申し訳ない。
 せいぜい、私のブログの中のえっちいネタなんて、時々記す18禁ゲームネタ程度しかないのに。

 私のブログは、ぜんぜんエロく無いですよ〜、とかアピールしてみる。
 エロ成分を期待する方は、リアルで私とお喋りしてください。

 35歳を過ぎてから、自ら目指す方向性は、「ちょいえろオヤジ」ですから。
 文部科学大臣宛に、自殺&殺人予告が届いたらしい。自殺予告は2通目だそうですね。

 莫迦莫迦しい。役所もマスコミも、何でまともに取り合うのか理解できない。

 1通目の自殺予告の封書を真に受けた時点で、その対応がおかしいのだ。
そもそも、この間の一連の所謂いじめ自殺のなかで、確かに最初のひとつふたつは、彼等なりのぎりぎりの選択の中での自殺だったのだろう。でも、その後の雨後の筍よろしくぞろぞろと死んでいった奴等なんて、只単に世間様の流行に乗ってみただけとしか、私は評価しない。いわば劇場型自殺だ。
そういった意味で、今回の予告状の送付なんて、劇場型ここに極まれり、だ。

 そもそもいじめ自殺に関して、私はマスコミ等の論調が気に入らない。
 自殺なんて、惰弱な人間が選択する最も卑怯な逃避行動に過ぎない。遺書を遺しての、死を賭した告発と云うけれど、それだって片方の言い分の一方的なものに過ぎない。マスコミ連中はおもしろおかしくそれだけを一方的に採用して、いじめたと告発された側には、世間的には、一切反論の機会が与えられないのよ?

 問題の根本は、単純なコミュニケーションエラーだと、私は思っています。
それなのに、最も重要な本人や家族が、そのことに気付いていないだけだとも。

 私がこの件に関して最も嫌悪するのが、遺族と呼ばれる家族の態度です。
自己の責任を棚に上げて一方的に学校を責めるばかりで、親が我が子の変化に気付かないのに、学校の先生がたかが一生徒のいじめに気付ける訳がないでしょうに。自分にできなかったことを、専門家でもない他者が気付かなかったからといって、責める心理はいったいなんなの?
 そもそもいじめに遭って自力で抜け出せないようなコミュニケーション能力の低い子どもに育てたのは、学校ではなくて親の責任ではないのかしら。

 弱い奴は死ぬ。いじめられて死ぬぐらいなら、なんで自分をいじめているヤツを殴り飛ばすなり刺すなりしないのだろう。報復が怖いの? どうせ自分で死を選ぶのに? 殺されても、少しでもやり返せただけすっきりしない?
まぁ、やり返せるような人間なら、普通に、いじめられないよね。

 この2件の自殺予告について、私は只の悪戯だとしか思えないし、仮に本当だったとしても、「なるほど、こういうことをやる奴ならいじめられて当然だな」としか思えない。

 生きることは権利であるが、自らを生かす義務でもある。それらを簡単に放棄する人間に、同情する心を、私は持ち合わせては居ない。
 最初に、これは非常に私的な見解、意見です。あくまでも、私はこう思うというものを記しているだけですので。

 マスコミの論調に押される形で、飲酒・酒気帯び運転への風当たりが強くなってきています。特に公務員は酷いもので、飲酒あるいは酒気帯び運転を検挙されただけで懲戒免職になるのが当然といった風潮ですらあります。

 甚だ、危険な兆候だと思います。

 以前陳べたように、ひとつの害悪が存在する場合、殆んどの場合で、厳罰化するだけでは問題は解決しません。その根本原因から分析し、対策をしない限りその害悪を取り除くことは不可能です。
今回の場合は、飲酒運転をしなくても済むような環境の整備です。

 解り易いであろう例を引くならば、違法駐車を引き合いに出しましょう。
どれだけ罰則が強化されても、違法駐車が無くなったという話は聞きません。違法駐車による渋滞などの弊害の所為で救急車の移動が邪魔され、病状が悪化したり死に到るというケースも実際に起こっているのですが、その場合の違法駐車者が飲酒運転のように厳罰に問われるという話も聞きませんが。
便利な場所に低廉かつ充分な駐車場があれば、違法駐車は無くなる筈です。
例えば、そもそも充分な駐車場が確保されていなければ、違法駐車の取締りや罰則を強化しても、問題が解決する訳がないでしょう?
尤も、違法駐車の場合、僅かな駐車料金をけちっての違法駐車も少なくはなく、こちらもモラルの問題でもありますけれど。

 飲酒・酒気帯び運転のみが如何にも個人のモラルのみに起因するように騒がれても、正直、困惑します。

 別の例を引いてみましょう。
 健康増進法とやらの所為で、公共の場では指定された喫煙所でしか煙草は吸えないことになっています。
どこだったか、可笑しな方向に行き過ぎた施設があって、上記の規定があるにも拘らず、喫煙所を設けなかったところがあるそうです。
これは、愛煙家にとっては、喫煙する権利を不法に奪われる結果になりました。

 私が強く懸念するのはこの点です。
私はお酒が好きで、いい居酒屋やお気に入りのバーで呑む事を無上の楽しみにしています。
お気に入りのお店で飲むことは、家でただ単にアルコールを摂取するのとは全く違う楽しみであることは、酒を嗜む方なら理解できると思います。

 飲酒・酒気帯び運転を正当化する気は更々ありませんが、お店で呑んだら公共とやらが保障している交通機関では家に帰れない人間にとって、異常に加熱した飲酒・酒気帯び運転の取り締まりや罰則強化は、お店で酒を呑むという楽しみ、権利を奪う結果になります。
 呑まない人間や、公共交通機関で帰れる人間の言葉を聴く気は私にはありません。タクシーで帰れとか、最初から車で行くなとか。そもそもそれが困難だから、環境整備が必要だと言っているのです。

 噛み合わない議論=空論をする気は、わたしにはありません。
 件の坊やは、いちど居酒屋からタクシーで自宅に戻った後、わざわざ自家用車でスナックへ出かけるという愚行の後、あの事故を起こしたそうですね。
あれを書いた時点では、知りませんでした。

 そういう状況であるならば、同情の余地はない。
 まぁあれだ、直接原因であれ遠因であれ、子ども3人の命に関わった事件の責任と云うものを、成人らしく取っていただきたい。

 昨日の私の文章は、ちゃんと文脈を追える人であれば、このような愚行をまで庇う様な類のものではないことは明白だと想うが。
後に読む方々に誤解されるのも癪なので、蛇足してみました。
 福岡で起こった、酒気帯び運転による追突事故とそれに伴って起こった児童水死事故について。些か想うところがあります。

 まず、大前提として、酒を呑んで車に乗った人間が悪いことは絶対です。そして次に、私はこの文章を書く上で、現時点で知っていることのみを思考の原材料としています。そして、私がしたいのはいつも、事実を元に視点変換を促して、こういう考え方も出来るのではないか、と云う問題提起です。主張なら主張と、明確に記しているつもりです。
時々、こういった書くまでもないような常識を無視してまで的外れな批判・非難を繰り広げる輩が居るようなので。自分の顔も晒さずにね。

 裁判になった場合、最大の焦点としてもめるだろう事柄が、容易に想像できてしまう。曰く、真の死因は何?と云うこと。
酒気帯びによる追突は遠因に過ぎない、海の上の道路として当たり前のようにちゃんとしたガードレールなどが整備されていれば、被害車は沈まず、結果として死者は出ていないと云う主張は充分成り立ちます。児童の死因は水死だそうですね。
子どもが3人も死んだというショッキングな事実を前にして、マスコミが視聴率的に都合のいいような決め付け報道を繰り返すことにより、物事の本質を見失うようなことが起きなければいいのですけれど。

 そして、酒気帯び・飲酒運転は確かに悪です。飲酒は人体の反応速度を鈍らせ、過度のアルコール摂取は的確な判断能力も奪いますから。
でも、飲酒運転の罰則を強めるばかりでは、絶対に問題は解決しないと想われます。と云うよりも、酒気帯び・飲酒運転をする人間は、罰則強化では絶対に問題が解決しないことを知っています。彼らの殆んどは、常習者です。
 誰だって、勿論常習犯である彼らだって、それが可能であればアルコールが入った状態での車の運転なんてしたくはないでしょう。ごく一部のクレイジーなドライブ好きを除けば。それでも、そうしなければならない、世間様から言わせれば”身勝手な”理由があるのです。
 それは時間です。日本の住宅事情を考えて、更に公共交通機関と云うインフラを考えてみてください。
自分の例を引き合いに出すのも恐縮ですが、例えば繁華街で常識的に夜7時頃から呑み始めて10時頃に宴会が終わったとしましょう。私は、交通公共機関では、家に帰れません。私の自宅、一応ですが名古屋市内ですよ?
つまり、オフィスあるいはオフィス街=繁華街と、住宅との地理的な乖離と、そこを繋ぐ公共交通機関の貧弱さ。
関東圏、言ってしまえば東京23区とその周辺と云う特殊な環境を除けば、日本国内大体どこでも似たような環境なのではないでしょうか。インフラ整備が整っていないが故に、繁華街で呑んだら、車に乗らなければ家に帰れません。
更に悪いことに、日本のサラリーマンは忙しいです。残業もなく、夜7時から呑み始められるなんて、なんて天国でしょう。残業を何とかやっつけて、呑まなきゃやってられないよ、なんて状態で9時頃から呑み始めて、家に帰れませんよね。
通勤時の公共交通機関のあまりの使えなさから、自動車通勤をせざるを得ない人間が居ます。彼らでも、個人的なリフレッシュのみならず仕事上の付き合いとして飲酒は必要でしょう。タクシーを使えというのなら、タクシーを使うのに躊躇が必要ないぐらいの高給か、やはりタクシーを使うのに躊躇が必要ないぐらい繁華街に近い家に住めるような高給をよこせ、と云うのは偽らざる心情だと想うのだが、どうだろう。

 後半部分は多分に私情が入ってしまったのですが、ちょっと、簡単に飲酒運転者を非難するだけでなく、考えてみてもらえればと想う次第です。

現実世界

2006年8月15日 エッセイ
 先に載っけた、「御伽噺を語ってよ」は、先日コミケで入手した、lightによるゲーム「群青の空を越えて」のエンディングテーマ、「Tell me a nersury tale」の抄訳。

 本当は著作権とか、いろいろと気にしなければいけないのでしょうけれど、とりあえず、今日、これを載せたかった。

 エロゲの中では異色作とも云える彼の作品の中で、重要な舞台装置として重いメッセージを以って創られた曲なので。
てか単に、私がこの唄を好きなだけなのだが。

 彼の作品の舞台は、戦争。何時でも人は死に、当然のように死んだ人は帰ってこないファンタジー世界。
その中でヒロインの一人が、「世の中が御伽噺の世界ならいいのに」と夢を呟くシーンがあり、そのシーンを具現化してエンディングテーマとして、スタッフロールをバックにこの唄が流れる。

 もともとこの詞を書いた人が、そんなような事をずっと言っていたのだが、歌詞がはっきり聞き取れなくて、CDを入手したらやっと明確にメッセージを読むことが出来た、と云うだけのことなのですが。
 最近、ふとした好奇心から西洋宗教、所謂ユダヤ教とキリスト教にご執心です。
 もともと伝記、歴史ちっくなものは好きだったのですが、今は手当たり次第に書物を読んだりネットを漁ったりして、知的好奇心を満たしております。

 背景には、ヨーロッパやアメリカなどのエンターテイメントを正確に理解するためには、バックグラウンドに存在するキリスト教的な風習や価値観を理解していないといけないという事情があります。

 このように考えるきっかけになったのは、次のような下らないことなのですが。
昔、「モンティ・パイソン」と云うギャグ番組がBBCで放送されていたことがあり、日本国内でも一部のマニアを中心に人気を博したことがあります。30台半ば以降の方の中には、ご存知の方がいらっしゃるかもしれませんね。MTGなどでは、「ティム」と云う呼び名の元ネタとして知られています。
このシリーズの中に、「Meaning of Life」と云う映画作品があります。この中に、デブの美食家モドキがレストラン内で噴水のごとくゲーゲー吐瀉しまくる、と云うギャグシーンがあるのですが、殆んどの日本人の方は、この文章を読んだだけでも、何がおもしろいのかさっぱり解らないでしょう。映像に仕掛けがあるギャグではありません。本当に唯、吐瀉しまくるだけなのですが。
このネタは、ローマ時代の美食文化に元ネタを求めます。当時贅沢を極めた美食家は、とにかく旨いものをたくさん食べるために、腹が一杯になったら鳥の羽根で喉の奥を刺激して吐瀉し、胃をリセットしてからまた食べる、なんてことをしていました。
これを知らないと、笑うどころか、「何をしたいのかさっぱり解らない」状態なのですね。
歴史や文化の知識と云う基盤がないと、渾身のギャグもウィットも、すべて空滑りする訳ですよ。

 と云う訳で、長々と書いてきたのですが、駆け出しの似非宗教史学者みたいな感じの日々を送っているわけですが。

 とりあえず気づいたこと。

 「予言」と「預言」が、日本では本当によく混同されている。知っている人には「何を今更」な話なのですが、「予言」はただ単に未来のことを言うこと。胡散臭い占い師に代表されるもの。ノストラダムスでもいいや。「預言」は純粋に宗教的なもの。預と云う文字が示すとおり、神の言葉を預って人々に伝えるもの。
なので、西洋宗教史的な観点からいえば、「予言」は外れることがある。寧ろ、偶に当ることがある程度。「預言」は絶対に外れない。「預言」された未来は、神が必ずそのとおりにするから。更に云えば、「預言」は厳密にはユダヤ教、キリスト教、イスラム教にしか存在しない。

 あとは、MTGネタなのですが、多くの日本人プレイヤーは、ミラディンブロックの3rdエキスパンションの「フィフス・ドーン」について、なんで「5」なのか知らないと思うのですけれど、どうだろう?
ここまで前フリしてあれば、気づく人も多いと思うのですけれど、これは、旧約の創世記、神が世界を創った5日目のことなんですよね。
『神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」 夕べがあり、朝があった。第五の日である。』
 たぶん、アメリカやヨーロッパのプレイヤーは、気付く以前に当然のようにそれを理解していたでしょう。
マジックのプレイには何の影響もないことなのですが、気付くか知らないままかでは、楽しみの数がひとつ違うような気がしているのです。 
…気付くまでには、かなり時間がかかったけれどね。

法の精神

2006年6月20日 エッセイ
 法治国家において、刑法とは、被害者(家族、遺族も含める)の復讐心を満足させるためにあるのではない。

 この基本的な法の精神を忘れて、被害者感情に迎合するような刑罰を是とするような風潮は、非常に危険な傾向だと、私は想う。

呆れた

2005年10月31日 エッセイ
 今日はお休みで、1日家に居たのですが。呆れんばかりのニュースが垂れ流されているのね。

 内閣改造。

 何のために、今の時期?
 つい先程の、選挙後の首相指名の時に同時にやっておけばよかったのに。と云うか、何の意味があって、あのときにやらないで今の時期にやっているのか全く理解できない。
 これこそ、税金の無駄遣いそのものぢゃないの?
 霞ヶ関で、大臣=省庁のトップが替われば、当然それに伴う税金の支出は避けられません。短期間に、1回で済む筈のものを、何のために2回もしなければならなかったのか、誰か解かり易く説明してください。私にはどうしても理解できませんので。

 それから、内容を見て2度吃驚。
 額賀が防衛庁長官って、なんなの?
 過去に奴が、所謂「不適切な発言」に拠ってごく短期間で全く同じ「防衛庁長官」を辞めることになった経緯を、どう考えているのかしら。

 全く不可解です。

弔意

2005年9月22日 エッセイ
 過日、後藤田正晴氏が亡くなりましたね。

 唐突にこう切り出しても、解らない方も多いかもしれない。
昭和の時代、自民党の大物だった元国会議員の後藤田氏が亡くなられた。いや、これもいろいろと語弊を招きかねない表現ですね。

 まぁ、有態に言えば、私がとても尊敬していたひとりの政治家が、その生涯を終えられたと云うことです。
 戦後の日本の政治家の中で、私が最も尊敬する政治家なんですけれどね。

 現在の形で自民党が選挙に大勝して、その後臨時国会が召集される間に彼が亡くなられたのは、確かに、ひとつの時代の終焉、そして自民党がかつての、私が知っている自民党ではなくなったことの象徴であるかのようです。
そういった意味で、非常に印象的なことだったので、相応しくは無いかもしれないけれど、日記と云うことでここに雑感を記すことにしました。

 私が何故彼を尊敬して止まないかと云うと、彼には揺るがない絶対の「理」と云うものが確立されていたからです。

 彼を尊敬するようになったエピソードに、こんなものがあります。
日本には、刑罰の中に死刑がありますよね。今でこそ年に何回か、そして何人かの死刑が定期的に執行されていますが、一時期、数年、数十年に渡って全く死刑が執行されなかった時期がありました。死刑囚が居なかった訳ではありません。どうした訳か、憚られるかのように、歴代の法務大臣が死刑執行の命令書にサインをしなかった時代があったのです。そして、何時しか世間の認識も、「死刑とは絶対に釈放されない懲役刑であり、執行はされない」と云うようなモノになっていました。まぁ、死刑囚をとはいえ、人を殺す命令書にサインをするなんて行為、躊躇があったのでしょう。で、たまたま幾人かの大臣がサインをしなかったら、それが慣行のようになってしまったのでしょう。
そんな時に、法務大臣になった後藤田氏は死刑を執行しました。世間は聊かの騒ぎになりましたよ。私よりも年上の諸兄は、覚えていらっしゃるかもしれませんね。
その時の彼の主張はこうでした。
「法治国家で、その法に基づいて司法が死刑と判断した。それを行政(法務大臣の事ね)が執行しないのであれば、行政が司法を尊重しないと云うことであり、それは民主主義の原点である三権分立を犯す」と云うような内容でした。
 当時、非難も中傷もあった筈ですが、そんな当然の原則を護る為に、それらをあえて受けても正しいと信じる行動を採る。

 その時まで、私は政治にも政治家にもそんなに関心は無かったのですが、心から尊敬できる人物だと直感しましたね。

 昨日や今日でも、テレビのワイドショー系などで彼の足跡を振り返るような特集が幾つかあったようで、仕事のために見られないことが幾分悔しい想いです。

 全く、今の自民党にこそ必要不可欠な偉大な政治家が失われてしまったなんて。とか想いつつ、かなりご高齢だったことですし、故人の冥福を祈りたいと想います。
 どうやら、今回は絶望的な結果らしい。

 信じられない。

 解かっていない人たちが、「解かりやすい」と勘違いして支持してしまったんだね。

 って云うか、土曜日の午前中になってさえ、某小泉が「一般公務員が24万人、郵政関連公務員が27万人、その郵政関連公務員を民間人にする改革のどこがいけないのか」と明言していたことについて、詐欺師としか言いようが無い、驚きを禁じえなかったです。
 これって、さすがにはっきりとは口にしていないけれど、過日私がこの日記に記した、「郵政関連公務員を減らせば、その給料の税金支出が減らせる」と云う誤解を積極的に招くための発言でしょう? それ以外ではあり得ないでしょう?

 これを卑怯、不誠実と言わずして何が卑怯なの? 何が不誠実なの?

 9日の時点で必死に私が自制した一文をここに記そうと想います。明確な誹謗中傷の類と言われて反論できないからね。
某小泉って、党首討論会でも、テレビ出演でも、おおよそ予め録画されていた自民党の広告意外では、他者他党を貶める発言しかしていません。
そんな人格者に独裁的な政権を与えて、本当に大丈夫だと想ってる?

 もうちょっと、自分たちの未来について、真剣に考えようよ。

 それから、「実績、経験が無いから」「マニフェストに現実感が無いから」と政権交代を拒む方々へ。
貴方達が、経験を積む機会を、一切与えてこなかったのに、そんな理由が通用するんですか?
貴方がビジネスチャンスで幾度も幾度も繰り返し、「お前には経験が無いから今回は他の者に任せる」と永年言われ続けたら、どう想います?

 それから、某共産党。貴方達、邪魔過ぎ。
自民党を散々批判して対決するかのような発言を繰り返しながら、小選挙区での貴方達の立候補は、利敵行為でしかありませんから。

 最後に、今回投票を棄権した人たちへ。
貴方達には、今後日本がどうなっても、貴方達の年金始め各種社会保障がどうなっても、税金が上がっても、就職が厳しくなっても、何も文句を言う権利はありませんから。
 *ヒミツ日記に追記アリ

 今回の選挙に関連して、投票が終わるまで一切触れるつもりは無かったのですが、余りにも酷い現状に、ついつい我慢ができなくなりました。

 そもそも衆議院の解散そのものは、理解できる事象です。かの法案が参議院で否決された後、差し戻された衆議院でもしも否決されてしまった場合、政権が受けるダメージは致命的なものになります。しかも、参院での否決によって反対派の勢いが増していたことを考え合わせれば、そのまま衆院での採決をするよりも、解散したほうが政権にとっては安全だったことは明白です。

 しかし、その後の選挙戦。私は基本的に小泉と云う所詮アジテーターでしかない政治屋は大嫌いなのですが、今回の彼は今までに無いほど酷い。あれが首相だと云うのは、日本人として羞恥心を刺激されるほどです。

 そもそも、彼の主張、「郵政民営化に賛成か、反対かが論点」と云うのは、詭弁としても余りにもお粗末です。あの郵政民営化法案、読みましたか? 法科学生の作文よりもお粗末な内容で、と云うのも、将来に亘る全国一律の郵便をまったく保障していないのが最大の特徴ですから。まぁそれ以外にも、膨大な長期国債を資産として持っている郵便貯金が、国債の暴落によって破産したらどうするのか、など重要、具体的なものは何ひとつ明らかではないのですが。
私は、郵政民営化には賛成です。しかし、あのお粗末な「郵政民営化法案」には間違っても賛成できません。つまりは、そういうことです。郵政民営化法案の賛成反対は、論点になり得ません。

 民主党に対して、「どうして対案を出さなかったのか」と問い詰める小泉の発言も、卑怯極まりないものです。
何故なら、政府案は、公務員の勤務時間中に、その賃金という税金を使って、公務として作らせたものです。それを、その役人も税金も使えない立場の野党に対して同等のものを求めるのは、フェアなんですか?

 そして、最近ではその発言が改まったのですが、当初。「郵政民営化をすれば、その公務員の賃金を税金で負担しなくてよくなる」ような内容の発言をしていたことがありました。偉そうに郵政民営化のメリットを説いていたときです。でもね、郵政は特別会計で成り立っています。郵便局職員の賃金は、税金からは支出されていません。さすがにその誤りに気付いたのか、最近はそういう発言はしていませんがね。

 小泉と云う政治家は、解からない大衆に対し、単純なキーワードを用いて解かった様な気にさせることに長けているだけです。所謂アジテーター。言うなれば、ヨブ・トリューニヒト。
 解散前の、自分の意見に反対意見を唱えるものは全く許容しないと云う姿勢は、まさに独裁と呼ぶにふさわしい。
それだけでも、今回の選挙では、自民党に勝たせてはいけないと想う。私は、強くそう想う。もしも今回自民を勝たせてしまうと、小泉はヒトラーになるような気がしています。

 余談ですが、同じ与党である公明党も嫌いなんだな、これが。
と云うか、あの「そうはイカンザキ」と云うキャッチフレーズを、羞恥心も無く衆目に晒せる時点で、そんなお粗末なセンスの政党に政権を担当して欲しくないと、心の底から想う。

 しかし久々に、過激なことを書いたのかな。これで何人を敵に回したのでしょうね。
ウィルスメールが来なければいいけれど。
 増税の話題が出始めました。

 この表現は適切ではありませんね。何時だって、増税の話題はありますから。信憑性、緊急性の有無が問題なだけで。

 かなり切迫した様相で、増税が話題にされ始めました。サラリーマンの、所謂控除を減らすことによって、結果として税収増を目論む、と云うことだそうです。

 で、モロにストライクに、サラリーマン家業な私なのですが、基本的に、今回の増税案には賛成なのです。
余談になりますが、寧ろ、公務員の定数削減の方こそ、「ふざけるな莫迦ヤロー」といった気分です。自分自身が公務員なのもあるワケですが、不景気になると無責任に公務員を槍玉に挙げやがって、霞ヶ関や、私の勤務先である名古屋市でも本庁など、何時まで電気が消されないか知っているのか?と本気で追い込みたくなります。閑話休題。

 まぁ、税金も確定申告を受け付けて計算をする側になってみると、サラリーマンに適用されている給与所得控除と云う不透明なシロモノの存在理由が、解らなくなって来ます。
これは、タテマエ上、自営業者の必要経費に相当するもの、となっているのですが、サラリーマンの必要経費って、なんなのでしょう。私には、せいぜいスーツぐらいしか思いつかないのですけれど。職場関係での付き合い酒かしら。通勤費は、公共交通機関を使えば、殆どの場合実費弁償されている筈で、自家用車通勤の人の車関係の費用とか。
そんな訳で、給与所得控除と云うものを、いきなり無しにするはないにしても、縮小するのも、いいのではないかな、と想っています。

 それに、増税自体、避けられないのであれば仕方がありません。確か孫子も兵法で語っています。と想う。「財政が逼迫しているのであれば、それがどんなに重かろうと税を取るしかない。徴税できなければ、最早その国に国力と云うものは存在しない。」と云うような内容だったと想う。
(想うばっかりですみません)

 しかし、最低限の、前提条件があると、私は考える。
それは、税制の公平な適用です。税制改革も、新税も要りません。
 件の給与所得控除ですが、その存在の意味のひとつに、税制の不公平感の緩和があります。つまり、自営業者は何でも領収書を取って経費で申告して、実際に儲かっていても税金なんて払わない、サラリーマンは100%所得を把握されていて、減税テクニックなんて弄する余地も無い、と云う、サラリーマン一般に持たれている感覚に対する手当てです。
実際にそうですよね。もう10年以上も赤字で申告を続けて、1円も所得税を払っていないくせに、ベンツを乗り回している自営業者。20年も赤字申告が続いているのに、何故か廃業も倒産もしていない小売業者。どう見ても家族でファミレスで食い散らかしているのに、偉そうに会社名で領収書を切らせるオヤジ達。そんな存在を、山程見てきました。
 つまり、必要なのは、先ず、そういった本当に儲けているのに税金を払っていない存在に正しく納税をさせることです。これについては、今の税法のまま一切改正を必要としません。ただ、税務署、税理士、本人が正しく必要経費を査定するだけ、たったそれだけで済みます。

 たったそれだけのことで、税収は、かなり増える筈なのです。

 それをやった上で、同時に、サラリーマンの給与所得控除の見直しを進めるといわれるなら、私は喜んで増税に応じます。
 ここ数日間、世間様を騒がせていたひとつの事案が終了しました。フジテレビによる日本放送株のTOBです。

 結果からすれば、既に皆様ご承知のようにTOBは成立、フジテレビは日本放送の発行済み株式の36%以上を保有することと相成りました。
非常に、不愉快です。

 まぁ、あの日枝とか云う会長の発言自体非常に私の癇に障るものがあるのですが。あの、インタヴューなどの折の人を小莫迦にしたような物言い、そのまま小泉に通じるものがありますよね。微妙に論点を自分に都合が云いようにずらしつつ、相手の個人攻撃めいたことにまで言及し、薄っぺらな笑いを唇あたりに貼り付けての対応。見聞すると腹が立つのですが、まぁこれは個人的な寧ろ感情面の噺なので詳しくは割愛。

 今回のTOB成立で、いちばん不愉快な点は、そもそもTOBが成立した点に他なりません。

 TOBとは、株式の公開買い付けであることは、ここ数日のニュース報道などで皆様解っていると想います。そう、指定した銘柄の株式を、指定した金額で買いますよと、広く一般市場に呼びかけて応募を待つ株式取得方法です。
この手法の最大の利点は、計算ができることです。
通常の株式市場では、株価は常に変動しています。まして、大量に指定銘柄を買い付けようとしたら、通常の市場取引ではほぼ必ず株価が値上がりします。これでは、当初用意した予算では、当初計画した株式を買うための資金が不足します。
確かに、その為の金額指定の公開買い付けなのですが。

 今回の場合は、かなり汚く見えます。

 昨日、つまりTOB締め切り前日の日本放送の株価終値は、フジテレビが提示していた公開買い付け金額よりも、650円ほど高価な状態でした。誰がどう考えても、TOBに応じるよりは、市場で売った方が儲かりますよね。子どもでも解る数字の比較です。
それでも、何故か、市場価格よりも廉価で売ろうと応募した株主が非常識な程たくさん居て、その結果フジテレビはこのTOBによって24%以上の株式を取得しました。元々保有していた12%強と併せて、持ち株比率を36%以上にした訳ですよ。

 ここで、いったい何が起きたのかを、具体的な数字を挙げて示します。
 先ず、発行済み株式3280万株の内の24%程、約790万株をフジテレビは、市場価格よりも格安で「何故か」買うことができました。昨日の終値を資料に試算すると、この差額と株数から実質的に「何故か」ぼろ儲けしてしまった金額は、51億円を超えます。
 ひっくり返せば、TOBに応じた株主たちは、寄って一斉に「何故か」51億円を超える寄付をフジテレビにしたようなものです。しかも、贈与税も掛からない状態で。
 実に、不可解ですよね。

 中には、今回のTOBを取り扱った大和證券のようなところもあります。この証券会社に投資信託で資金を預けている人達は、どう考えるのでしょうか。株式のプロとして資金を預けている筈の証券会社が、「何故か」保有株式を市場価格よりも大幅に安値で売ってしまうなんて、何を信用したらいいのか判りませんよね。

 今回のTOB成立の裏は、年老いた経営者グループと云う云わば「村社会」が、若手の台頭を毛嫌いして損を省みずに嫌がらせをしたようにしか、私には見えないのです。
だから、不愉快極まりないのです。
勿論、広告製作会社など、将来の自社の利益などを考えての判断と云うところもあるでしょう。しかし、それでさえも、私から見れば、頭の固い愚かな判断だとしか想えません。

 この騒動の中で、実に英断といえる判断をした企業があります。トヨタです。「市場価格を下回るTOBに応じられる訳がない」と、いっさい動かずに居ました。
先に記したように、市場価格より安価で売ること事態がおかしい、云わばこれは常識です。ただ、今回の場合、終盤は多少事情が違っていました。
大株主の上位10で、持ち株比率が80%を超えると上場廃止になることも、近頃の特に西部がらみのニュースで知っている方も多いと想います。
株式は、上場廃止になれば、その価値は大幅に減ります。なので、それまでに、できるだけ高値で売りたいと云うのも云わば常識なのです。今回、終盤に入って、TOBが成立する見通しが強くなっていました。そうなれば、ライブドアが45%、フジテレビが25%以上、村上ファンドが8%以上だったかな、それだけで80%目前。上場廃止は確実な情勢だったのです。
それでも動かなかったトヨタ上層部は、今回の渦中では動かなかったと云う点で、私は、経営者としては尊敬に値すると想っています。今後の動きに、注目です。

 場外乱闘として、鹿内一族の訴えも、これからおもしろさを増してくれる要素になりそうです。いちどは売った株が返還される訳はないと想うのですが、8%ですからね。影響は大きいです。しかも、確かに彼等が主張するように、「大和證券がフジテレビがTOBを行うことを知っていて隠していた」と云うなら、その不誠実さは会社の信用を左右するレベルのものだと想います。少なくとも、将来に渡って私はこの証券会社とは取引を持ちたくないと想います。

 まぁ、世間様がTOBの成立と、株式の保有率にばかり注目しているみたいだったので、その成立がどれだけ不自然極まりないものなのか、ちょっと数字を挙げてみたくなったデスよ。この51億円超について、経済専門誌やマスコミなどが焦点を当てて取り上げてくれないものかしらね。
 今朝の新聞で読みました。
 「国民健康保険の未納が問題になっているので、携帯電話の通話料に上乗せして徴収しよう、とか、クレジットカードで引き落とそう、などといった意見が出されている。」らしいです。
 素晴らしい、見事に明後日を向いた意見ですね。また、保険料の徴収率の低下をこれ以上看過できない理由としても、
「納付率の低下が制度不信を招いた年金の二の舞は踏ませないため」とされているらしいです。
 なんて、見当違いも甚だしい見解なのでしょう。

 現在の私を知る方の殆どはご存じないと思いますが、私は10年ほど前までは、そのまま、国民健康保険を専門に扱う係に所属しておりました、いわば国民健康保険のプロです。知識古いけど・・・。一応、10年前のものですが国民健康保険法も完全に把握しておりました。

 さて、国民健康保険の未納率の問題ですが、これは主に「自主納付に任されている」が故の問題です。その他の全ての健康保険制度とは違い、給料からの天引きではありません。だから、未納が発生するのです。
まぁ、保険料が高価なのは確かです。会社や役人の健康保険のように、労使折半の制度がある訳ではないのですから。それだけを考えても、単純に、国民健康保険の被保険者(つまり利用者、本人)はそれ以外の保険の被保険者に比べて、保険料が2倍です。

 但し、保険料と云う1点については、非常に明快で解り易い、理解されやすい構造をしています。社会保険や共済保険が給料の一定%と云う計算方法なのに対し、国民健康保険は、健康保険が使った金を全員に割り振っているだけですから。そこには、不可解な使途不明金や汚いカネが紛れ込む余地はありません。

 そう云った訳で、国民健康保険の未納は、ひとえに納付者の問題です。時々、支払能力を超える保険料請求が発生することも事実ですが、それも含めて、納付者の問題です。
 ですが、冒頭に挙げた、新聞で紹介されたような案は如何なものかと想う。徴収も、民間頼りですか。いっそ、民営化してみませんか。

 さて、年金は、根本的に、違います。

 もともと、国民年金を始め各種の所謂年金制度は、保険制度に見立てて、それを利用した社会保障のひとつです。そう、年金保険です。私たちが掛けた金を、将来私たちが年金として貰う、そういったものです。
 昨今、卑劣にも政府が宣伝しているような、「世代間の助け合い」などでは、全くなかった筈なのです。それが証拠に、昨年、三流政治屋共の年金未納問題が発覚した時に、安倍とか云うその腰ギンチャクはマスコミの前で国民に向かってこう公言しました。「年金が未納になっている者は、将来その年金が貰えないと云うだけのことで、個人の問題である。年金制度的にも、(政治的にも)何の問題もない。」と。あれぇ、おかしいですねぇ。何故政府は、年金の未納を大問題として、あれこれ議論らしきことを繰り返しているのでしょうねぇ。

 年金の未納が増えたのは、当たり前のことです。
10年前、私は国民健康保険を仕事にしていたと記しましたが、そのときの所属は、「保険年金課・保険係」。国民年金も、同じ課の業務でした。
その私でも、国民年金の詳しいことは、解りません。多分、貴方が現職の年金係の方に質問をしても、簡単には疑問は解決されないでしょう。
国民年金は、その制度として、5年毎に制度を見直すと云う実にバカバカしい仕組みを持っています。なので、事務屋さんは、まず客の生年月日を確かめることからお仕事が始まります。誕生日が1日違うだけで、適用される制度が全く違うなんて云う、全く持ってリカイフノウな事態が、現行制度なのです。

 その上で、ねぇ。見直す度に、保険料として支払う現金は上がる、貰える予定であり未定の金額は下がる。しかも貰える年齢までどんどん悪くなっていく。そりゃ、若い世代が、「今のペースで貰える年齢が遅くなっていったら、オレの時には平均寿命を越しているだろう」と考えるの、当たり前ですよね。

 その上酷いのが、社会保険庁や政府の莫迦共。国民年金の未納者が、所謂生命保険業者の企業年金を掛けていることに腹を立てたのかなんなのか、「あれを強制解約させて差し押さえる」なんて愚考をしつつあるらしい。
如何にも役人らしい貧困な発送です。企業人なら、きっとこう反論するでしょう。尤も、あまりにもバカバカしいと想ったのか、当の生命保険各社からはこういった反論はされていませんが。
 「国が提供し、保障するといっている国民年金と云う商品が、倒産の可能性さえある筈の民間企業が販売している企業年金よりも信用されていないと云う、市場の正直な反応です。」

・・・私の意見、間違っていますか?

 尤も、これ以上私の正直な意見を晒すと、トンデモナク突拍子もない範囲まで発想が跳びますので、ここらにしておきたいな、と想います。
興味がある方がいらしたら、そうおっしゃっていただければ、酒でも呑みながらゆっくりと持論を語りますよ。

私見

2004年11月30日 エッセイ
 結構好きで見ているテレビ番組のひとつに、NHKの「クローズアップ現代」があります。特定のテーマではなく、様々な現在の問題を取り上げるドキュメンタリーが好ましいです。

 で、今日も夕食を採りながら見ていたわけですが。それを観て聊か頭に来ている私は、今日はそのネタでひとつ意見を書いてやろうと想った訳ですよ。
なお、今日のタイトルは、「和平は復活するか〜アラファト後の中東〜」でした。

 はい、以前確か、この日記にも書きました。私はユダヤ人と云う奴等が大嫌いです。
 今日のネタでも、当然、主役級の存在はユダヤ人でした。
番組の中で、ユダヤ人どもが偉そうに怒っていました。「和平が進展しないのはアラファトがテロを止めないからだ」とか言って。その前後のユダヤ人共の言葉に、カチンときてしまったのです。

 何か大切なことを忘れていないか。そもそも、パレスチナの土地に侵略者として入り込んだのがユダヤ人共だろう。
現在、世界中の多くの人は忘れてしまっているのかも知れないが、そもそも問題の出発点はここにあるはずだ。パレスチナ人たちが暮らす土地を、何の根拠もなく自分たちの土地だと主張し、USAやUKの軍事力を背景に無理やり奪い取って建国された国、それがイスラエルだった筈だ。
あぁ、一応、根拠とやらはあったのだったっけ。奴等の「旧約聖書」とやらに書かれている、「神から約束された乳と蜜の流れる土地」と云う一文だ。それだけで、農耕能力的に豊かな人様の土地を臆面もなく「神から与えられた自分達の土地で、パレスチナ人はそれを不当に占領している」と主張したのだっけな。
そう、それは歴史的な裏付けですらなかった。流浪の民になる以前、彼等がそこに暮らしていたと云う訳では全然なかったのだ。ただ卑劣なほど純粋に、神の言葉とやらを元に「最も豊かな土地が自分たちの物」と決め付けたのだったね。

 テロと呼ばれる行為にしたところで、元々はその侵略行為への抗議行動だったものだ。尤も、今でもパレスチナ人達は自分達の行動をテロだとは想っていない。殉教攻撃と呼んでいる。テロといわれては心外だろう。
今は暴力の連鎖とか言って、パレスチナ人は殉教攻撃、ユダヤ人共は軍隊による無差別攻撃。どっちもどっちぢゃないか。ユダヤ人共が偉そうに、「テロへの報復」なんて言ったところで納得なんてできるものか。自分たちの行動自体が、自分たちがテロと呼んでいるものと大差ない。

 宗教的な不寛容と云うのは、世界中の不寛容の中でも最も度し難いものです。そこには、現実的な妥協点が存在しないから。そして、宗教的な妄信と云うのは最も厄介です。そこには、理性の欠片も存在しないから。何故なら、総ての事象の原因を神に預けることによって、究極の無責任と無反省、無知と無恥の状態にあってそれを省みることがないのだから。

 そう、宗教的な不寛容。私が、常々ユダヤ人は大嫌いと公言するその最大の理由はここにある。
まったく、考えるだけでおぞましく想う。数千年に渡って、特定の国家を持たない民だった彼等の境遇は、確かに憐憫に値するだろう。しかし、その、数千年もの間、様々な土地でその土地の風習や宗教の中にあって、全くそれらと交わることなく、自分達の宗教と習慣を独善的に護り通してきたのだ。
そりゃ、歴史的に欧州各地で忌み嫌われてきて当然だろう。自分達のすぐ隣に住む人間が、全くその地域の常識から外れた生活様式や宗教を独善的に護って暮らしているのだ。それこそ不気味で理解不可能と云うヤツだ。
日本の諺に言う、「郷に入れば郷に従え」と全く相容れない存在、それがユダヤ人と云う奴等なのだ。

 さて、ここでユダヤ人ユダヤ人と、散々な書き立てようだと想われる方もあるかもしれない。ユダヤ人の中にも、それぞれの地域に溶け込んで、その宗教や文化を許容して隣人と仲良くやっている人達もいるかもしれないぢゃないかと、言われるかもしれない。
しかし、ことユダヤ人に関する限り、それは在り得ない。何故なら、厳密にユダヤ人とは、母親がユダヤ教徒であるユダヤ教徒であるから。そしてそのユダヤ教徒は、そのそうでない人達から見れば異常な戒律を堅く護り、護らない人間を許容しないから。

 と云う訳で、パレスチナ問題の解決のためには、とにかくユダヤ人共を黙らせろ、先に人様の土地を分捕った奴等に今更何も主張する権利はないと、私などは想っているわけです。
その上でとっととパレスチナ人に奪った土地を返し、改めて自分たちが生活する場所を僅か提供して欲しいと、頼む立場だろうと考えます。

 なお、長々と私見を書いてきましたが。最後に。
 以前の日記でも書きましたが、日本には表現の自由がある筈です。批判、非難はともかく、不当な圧力などによって、本人の承諾なしにこの日記が削除または改変されるようなことはないと、信じております。
また、本人にこの日記を削除または改変を迫る「自称正当な圧力」などというものも存在しないと、心より信じる次第です。

失望

2004年11月4日 エッセイ
よし君様、K沢様、リンクありがとうございます。

 かつて、これほど世界中から注目を集めた選挙はなかったと想う。勿論、USAの大統領選挙のことだ。

 アメリカがこれから先も、世界の中心で自分の権利だけを叫ぶのか、多少は反省をして見せるのか、個人的にも大きな関心を持って見ていたのですが。
 どうやらアメリカ人っていうのは、莫迦のほうが多かったようで。

 だいたい、何が性質が悪いって、アメリカ人どもは自分たちの大統領を選んでいるつもりで、しかもその認識は正しいのだが、選ばれる方は時として世界の支配権を握ったつもりになってしまうことでして。今回のヤツなんて、その典型ですよね。ヤツの幼稚な、現代社会を西部劇の舞台と勘違いしているかのような言動が、それを如実に物語っている。

 それでも多くのアメリカ人が、実は自分たちが世界中から憎まれていることに気付きつつあって、その表れとして今回の選挙が、前回に匹敵するような大接戦になったことには多少の意味を求めたい。
これも、問題は、ブッシュジュニアが国民の半数近くが自分を拒否したことを真剣に受け止めるかどうかにかかっているのですが。

 都市部ではケリー氏が圧勝、田舎でブッシュが票を稼いだと云う図式が成り立っており、そりゃ当然殆どの西欧諸国と上手くいかない訳だよなぁ、とか想ってみたり。

 とりあえず、ブッシュジュニアを、どうしようもなく嫌いな私としては、この文章はただの恨み節だったりします。
 erom様、リンクありがとうございます。
 過日の公認タイプ1以来、それ関係のリンクが増えてきてとても嬉しいです。私は大した情報発信はできませんが、大会を開いたりして可能な限りヴィンテージを盛り上げていきたいと想っていますので、よろしくお願いしますね。

 さて。今日書きたいことは、そんなほのぼのしたことぢゃなくて。
大変なことになっていますね。新潟方面とか、イラクとか。

 地震のことについて、あえて今まで触れなかったことには訳があります。やはり、思いつきで迂闊なことを書いて人を傷付けるような結果は招きたくないと云うことがひとつ。今回の場合は特に、洒落にもなりませんから。そして今ひとつ。より多方面から検証された正確な情報が欲しかったからです。
私が尊敬してやまないひとつの言葉があります。曰く、
「事実を知らずに判断を下すほど傲慢な行為はない」

 さて、新潟の地震ですが、改めて大変なことになっていますね。初日に、40分ほどの間に震度6以上が3回。震度5以上の余震も多数。しかも数日後に再び震度6以上の余震。予てからの台風のこともあり、各地で酷い被害が出ています。
確か阪神の大地震の直後、イギリスの専門家はこう言いました。「日本は、どこに住んでいても、あの朝の阪神と同程度に危険だ。日本は人間が安全に住める土地ではない」と。まさにそれが証明された訳で。
こればかりは、いくら建物の耐震基準を強化しようがどうにかなる問題でもありません。もともと、今回の被災地区は豪雪地帯で、積雪に耐えるために家などかなり強固な造りになっていた訳でして。それでもこれだけの被害が出るということは、建物の強化と云う範囲では対策が追いつかないことの証明です。ついでに言うなら、人間が決めた基準を地震が守ってくれるなんて莫迦な話はないのです。

 それ以上に私が想っていることは、やっぱり自衛隊は使えない、無能な集団だなぁと云うこと。自衛隊員を責めている訳ではないですよ、念の為。
地震から、5日経ちました。未だに水が足りない、食料が足りない、エコノミー症候群で死亡する人がいる、日が重なれば凍死者が発生しそうだ…事後の対応が悪すぎるのです。
異常事態で非常事態、仕方がないと想われるかもしれません。でも、私は私の視点からあえて問います。
自衛隊って、もともと、国内で戦争するためにある軍隊です。いろんな奇麗事は結構。本来の存在意義である自衛行動って、突き詰めれば、日本の国土内で戦闘行為に陥ることでしょう。そもそも、そうでなければ兵装は必要ありませんよね。で、国内で戦闘行為に陥る以上、戦場と化した地域は、すぐに今回の地震の被災地区のようにライフラインが壊滅するわけですよね。そこまで、戦略構想の前提の段階で明白なのに、その後の国民の生命を守る生活支援、或いは生存支援が手順としてしっかり確認されていない。だから、未だにみんな酷く不自由な状態に置かれているのです。
それに、以前から大騒ぎして、今年の夏頃に成立した筈の「国民保護法案」。有事の際に国民の安全を守る為の法案だった筈なのですが、今回まったく話題にすらなっていません。何の役にも立っていません。やっぱり、ただの「戦争したい法案」だったのね。

 次にイラクの人質さん。
 誤解を恐れずにひと言で斬るなら、莫迦だね、これに尽きます。どうも、今のところ寄せられている総ての証言が、ただの物見遊山で多数の方の静止を聞かずにイラクに入ったとしている訳で。
まぁ、酷い言い方をするなら、自業自得以前に、覚悟の上だったのでしょ、のひと言です。

 ただ、もっとお寒いのは、お莫迦の総大将、小泉氏。さっさと、相手の要求を呑む気は一切なしと明言しましたね。非常にデリケートな交渉が必要なこういった緊迫した問題で、どうしてこういった考え無しの、莫迦なひと言を口にできるのか不思議で仕様がありません。このひと言は、あらゆる交渉の拒絶と同意味です。
一応、可能な限りの手を尽くして人質救出に全力を挙げるとは言っていますが、ある程度事情を知っている人間なら、それもまたただの莫迦話であることは明白です。そもそも、交渉窓口がないのですから。それに、首相の発言内容は、「交渉の余地無し」と云う意味の言葉でしたから、この時点で矛盾が生じています。
そして、以前の日本人の人質解放に、日本政府は全く無力でした。無事に開放されたのは、本当に、偶然と幸運に恵まれたに過ぎません。今回も、外交ルートを通じて、交渉ルートを確保しようとしている、そんな程度の段階。酷評するなら、転んで怪我をした子どもを抱えて、「誰かお医者様はいませんか」と周りに問うているような状態。
 そして、確かに今回の人質は莫迦の見本のようなものですが。
これは、WaterForestの本心では在りませんが、こういった見方もできると云う一例。別に、誰がどこへ旅行に出かけようと自由です。そう、それこそ日本人がイラクに出かけることも自由で、だからこそ彼は彼の地にいます。だから、そこで戦闘やテロに巻き込まれて死亡することは本当に自業自得です。ただ、日本人であると云う理由で人質にされるのは、日本政府の外交、国際政治戦略の誤りが原因だと云う考え方です。日本がUSAに追従して、自衛隊を彼の地に駐留させていなければ、彼は安全に、満足にその物見遊山を終えて帰国できていたかも知れないのです。
 国会議員始め一部の莫迦な奴等が自己責任論などを今回も吐くでしょうが、彼が人質になったこと、そのことについては日本政府は無責任ではないのです。

 そして、いち早く自衛隊の撤退はないと明言した首相。彼の発言の一言一句を聞いて正確に分析すると、イラクの復興活動と云う名目でのUSA追従が、本来の義務である国民を守ると云うことよりも重要だと考えていることが明らかですね。
これで6人目の日本人人質。明らかに、日本の国益になっていないのにね。

 地震で犠牲になった方の冥福を祈り、身近な方を失った人々の心の平安を、心より願います。
そして、人質となった方も無事解放されるよう願います。

…私、不信心者ですけれどね。それでも、こころから願います。

夢の源流

2004年10月19日 エッセイ
終生様、リンクありがとうございます。

 先週でしたか、文筆業に就きたいと云う夢半ば、と云うことを書きましたが、ふと振り返って、何故自分がこうやって文章を創ることが好きなのかを見つめてみたりしました。

 まずは、今まで読んできた本を振り返ってみます。子どもの頃から、活字中毒と云う言葉そのもののように、本を読むことが好きでした。ただ、その読書遍歴はちょっとばかり、普通とは言い難いものだったかもしれません。
小学生の頃は、冒険活劇系が好みで、江戸川乱歩の少年探偵団シリーズとか、ルブランのルパンシリーズなどを読んでいました。
それが、中学生の頃はどうした訳か文学系に目覚め、堀辰雄なんて好んで読んでいたのです。
そして、高校時代。D&Dと云うRPGに嵌ったこの頃読み始めたのが、SFやファンタジー、ライトノベル系です。
ついには20歳を過ぎた頃、ひょんなことからおかしな世界にまた嵌り始めます。伝記系から博物学系などを読み漁り、その結果澁澤龍彦経由でサドの小説まで到ってしまったのでした。
今でも、歴史上のちょっと(?)おかしな人物の伝記などは大好きで、ジャンヌ・ダルク関係の本や、サド、ジル・ド・レ、ニジンスキー等の関係の書籍が本棚の1段を占めています。

 そして、自分が文章を創り始めた頃を考え直すと、中学生の頃まで遡ることになります。
その頃、歌を作って歌いたいと友人たち幾人かで思いついてしまい、歌詞のつもりの、詩とも呼べない言葉の羅列をノートに書き溜めていたことを想いまします。
その後、RPGで遊んでライトノベル等を読んで、この程度なら自分でも書けるのではないか、RPGのシナリオに肉付けと脚色をすれば、三流文章屋が発表しているファンタジー程度、或いはそれよりもいいものが書けるのではないかと想ってしまったのが、高校生の頃です。
で、この高校生だった頃、以前日記にも書きましたよね、定期的に手書きで手紙など書くようになって、文章と云うものを強く意識するようになったのでした。

 その後、キーボードに慣れるにつれ、私は何か考えを纏めるときにはキーボードを叩いて自分の考えを整理すると云う手法を常套とし、自然に自分の考え、意見などを文章の形で記すようになりました。
その一方で、歌や、本などから、自分に合う感性の文章を収集し、そのテクニックなどを模倣を始めとして自分のものへと吸収するようにしてきました。
こうやって、今の私の文章は造られています。

 そう、私の文章は、自分の考えをよりはっきりとしたものに纏める作業の中で生まれてくるものなのですね。自分を確立しながら書かれる文章、だから書くことが好きなのだと想います。
そして多分、そんな文章の創り方だから、エッセイ形式の文章が今はいちばん書き易いのでしょう。

 なんだか、こうやって自分を解析してみる文章をウェブ上に晒すのは、聊か恥づかしい気がしますね。
でも、まぁ、文章について多少偉そうなことを書いてしまったものですから、その根底にあるものに、ちょっと触れてみたくなったのでした。

 追記
 今私が好きな文章書きは、澁澤龍彦氏、長野まゆみ氏、堀辰雄氏、三島由紀夫氏ですかね。ここまで晒すと、私のシュミや人格までモロバレそうで、やっぱり恥づかしいですね。

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