「人間は考える葦である」と云う有名な言葉があります。
けだし名言で、考える能力の無い者や考えることを放棄した者は、ヒト以下の存在であると、わたしは想っています。
そして、理不尽な突然死に襲われる恐れの無い世界を平和と呼ぶのなら、現在の、自らを生かすための努力をも放棄したような者でさえその生命を保証されるような世界は、退廃と呼ばれてしかるべきだと考えます。
聊か傲慢な表現になりますが、莫迦・愚鈍が、「罪悪のひとつとして、当然のデメリット」とされないような現代日本は、間違いなく退廃の中にあると想います。
赤い方々が大好きな生存権と云う言葉があります。
でもこれは、「誰もが理不尽な突然死に襲われることの無い、自分で自分の人生を全うできる権利」のことだとわたしは信じて疑いません。自身を生かす義務と同等の言葉だと信じて疑いません。
現状のように、「自ら働いて自らを生かす義務を負いたくはないが、我には生存権があるのだから、誰かが我を生かせ」と云うが如き横暴だとは、わたしにはとても考えられません。
何が言いたいのかと云うと、今回のバス事故のこと。
格安深夜バスの類が起こしたフェイタルな事故は、ここ数年で枚挙に厭わず。今回もまた繰り返しただけ。
廉価な商品には当然廉価な理由があります。労働をして賃金を得た経験がある人間ならば、誰でもほんの僅かばかり考えればその真理は理解できるはずです。
安全にかける僅かばかりの金をケチった人間が、正しくその対価を支払っただけのことだとわたしは想っています。
昨年騒ぎになったユッケも同じ。
自分の人件費などから考えても、提示された格安の商品に、最低限の安全にかける経費が加算されているのか否か、少しでも考えれば解るようなこと。
そんな程度のことも、まともに考えないから、今回のような事故は起こる。
事業者には安全を提供する義務がある、と云う建前を口にするのは簡単です。
でも、消費者が、安全を無視した格安商品を好むから、今回のような安全度外視の商品が市場に溢れるのです。それを無視して建前だけを強弁することは許しません。
何故なら、どの業界でも、安全度外視の価格競争をせざるを得ない程、無思慮に格安商品に群がる大衆消費者が、安全を商品価格に上乗せする事業者を破産させてきた事実があるのですから。
わたしは、件の如き廉価飲食店で生肉を食べたことはありません。自己責任の下に、友人が狩った鹿の生肉は食べますけど。店で口にするならば、一定以上のレベルのお店で信頼できる価格で提供されている場合のみ。
わたしは、件の如き廉価交通手段で移動をしたことがありません。安全を適正価格で買っていると思っています。
消費者の側に、無思慮に格安商品に飛びつくのではなく、「その価格は明らかに何かおかしいだろう?」と云う、当たり前の感覚と考えを求めることはおかしいことなのでしょうか?
誰もが「正しい」金銭感覚を持ち、怪しげな業者を選択肢から外していけば、行政指導や法律の強化などなくても、事故を起こすような業者は淘汰されていく筈なんです。
ちょっと視点と論点が変わりますが、無思慮に格安商品に飛びつくということは、翻って、その商品、ひいてはその商品に関わる人間の人件費に、「その程度の価値しかない」と断ずることでもあります。それが廻り廻って、自らの人件費も「その程度で充分」と云うことに繋がっているという事実も、正しく認識されるべきだと想います。
バス会社を責めるしか能がないマスゴミにあまりにも腹が立ったため、正直に想うところを吐露してみました。
けだし名言で、考える能力の無い者や考えることを放棄した者は、ヒト以下の存在であると、わたしは想っています。
そして、理不尽な突然死に襲われる恐れの無い世界を平和と呼ぶのなら、現在の、自らを生かすための努力をも放棄したような者でさえその生命を保証されるような世界は、退廃と呼ばれてしかるべきだと考えます。
聊か傲慢な表現になりますが、莫迦・愚鈍が、「罪悪のひとつとして、当然のデメリット」とされないような現代日本は、間違いなく退廃の中にあると想います。
赤い方々が大好きな生存権と云う言葉があります。
でもこれは、「誰もが理不尽な突然死に襲われることの無い、自分で自分の人生を全うできる権利」のことだとわたしは信じて疑いません。自身を生かす義務と同等の言葉だと信じて疑いません。
現状のように、「自ら働いて自らを生かす義務を負いたくはないが、我には生存権があるのだから、誰かが我を生かせ」と云うが如き横暴だとは、わたしにはとても考えられません。
何が言いたいのかと云うと、今回のバス事故のこと。
格安深夜バスの類が起こしたフェイタルな事故は、ここ数年で枚挙に厭わず。今回もまた繰り返しただけ。
廉価な商品には当然廉価な理由があります。労働をして賃金を得た経験がある人間ならば、誰でもほんの僅かばかり考えればその真理は理解できるはずです。
安全にかける僅かばかりの金をケチった人間が、正しくその対価を支払っただけのことだとわたしは想っています。
昨年騒ぎになったユッケも同じ。
自分の人件費などから考えても、提示された格安の商品に、最低限の安全にかける経費が加算されているのか否か、少しでも考えれば解るようなこと。
そんな程度のことも、まともに考えないから、今回のような事故は起こる。
事業者には安全を提供する義務がある、と云う建前を口にするのは簡単です。
でも、消費者が、安全を無視した格安商品を好むから、今回のような安全度外視の商品が市場に溢れるのです。それを無視して建前だけを強弁することは許しません。
何故なら、どの業界でも、安全度外視の価格競争をせざるを得ない程、無思慮に格安商品に群がる大衆消費者が、安全を商品価格に上乗せする事業者を破産させてきた事実があるのですから。
わたしは、件の如き廉価飲食店で生肉を食べたことはありません。自己責任の下に、友人が狩った鹿の生肉は食べますけど。店で口にするならば、一定以上のレベルのお店で信頼できる価格で提供されている場合のみ。
わたしは、件の如き廉価交通手段で移動をしたことがありません。安全を適正価格で買っていると思っています。
消費者の側に、無思慮に格安商品に飛びつくのではなく、「その価格は明らかに何かおかしいだろう?」と云う、当たり前の感覚と考えを求めることはおかしいことなのでしょうか?
誰もが「正しい」金銭感覚を持ち、怪しげな業者を選択肢から外していけば、行政指導や法律の強化などなくても、事故を起こすような業者は淘汰されていく筈なんです。
ちょっと視点と論点が変わりますが、無思慮に格安商品に飛びつくということは、翻って、その商品、ひいてはその商品に関わる人間の人件費に、「その程度の価値しかない」と断ずることでもあります。それが廻り廻って、自らの人件費も「その程度で充分」と云うことに繋がっているという事実も、正しく認識されるべきだと想います。
バス会社を責めるしか能がないマスゴミにあまりにも腹が立ったため、正直に想うところを吐露してみました。
コメント
安かろう悪かろうは一理ありますが、最低限のコンプライアンスを遵守してない企業は責められて当然と思います。
ネタにマジレスなんでしょうが、毒を吐くならもうちょっと勉強された方が良いと思います。
食に関しても、200円台でまともな弁当や丼物が作れるのかは疑問を持つ所です。
単に大衆消費者にお金がないからだと思います。
価格に安全どうこう考えられる人は恵まれてますよ。
震災前からですけど、経済格差がありすぎです。
論理自体がずれているように感じました。
高速バスを使わざるを得ない事情を持った人々の視点が欠落していますね。
物事を複眼的に見ていない(見るつもりすらない?)マスコミの報道は確かに
私も疑問を感じますが、同様にWaterforest氏のこのエントリーにも、その
マスコミと同じく特定の面からしか問題に向き合っていない印象を受けました。
理由はWaterForestさんと同じく(いびきがひどいから使うに使えないというのもあるんですがw)。金がないから安いのを使わざるを得ない。それは金があるものの理屈だ。ということ自体が個人的には「もう麻痺しちゃってるんだな」っていう印象。一方で事実でもあるとは思いますが。
若干逸れますが、たとえばファミレスなんかで飲食店で飯を食い、金を払う。そこで横暴な態度をとる人って居ますよね。もっと広い範囲で言うなら直接的には横暴じゃなくても、「俺は客だぞ」みたいな意識や態度の人。多分その様子を見たとき、若干の不快感を覚えた人も居ると思います。
快適に食べる場を提供し、食べ物や飲み物を調理し、食べ物を客に届ける。「サービスの対価として我々は金を払う」。「我々が金を払った対価でサービスを受ける」わけではありません。この両者はイコールに見えて完全に別物です。横暴な人や「俺は客」な人は後者の考えですね。
さて、これを今回の件に置き換えてみます。
「目的地へ安全へ運ぶ対価に我々は金を払う」では、この値段では成り立たないのは分かりますよね。この場合は「目的地へ運ぶ対価に我々は金を払う」です。
値段がどうあろうと、質(安全)を保証すべきだという考えは「我々が金を払った対価に目的地へ安全に運ぶ」というものです。
さて、あなたがたはファミレスで横暴な態度をとる人ですか?
①都合よく言葉の意味を歪曲するなよ。
②ちゃんと日本語を読めて理解できるのならありえないコメですねw
③そして、見事に最後までご自身の考えは書かれていない、まるで火病ったとしか思えない「叩き」だけのコメですねw
放言とひと括りにしたが、2番目の「名無し」さまの感想は、苛烈だとは想うけど、わたしはそのとおりに想っています。3番目の「ナナシ」と4番目の「774」に対しては、金が無いなら分相応の娯楽を得なさい、それで不満ならもっと稼ぎなさい、と云うだけのこと。それが即ち、「自らを生かす義務」と云うわたしの文章の真意でもある。深夜バスのレジャー参加とか、生活必需品ぢゃないでしょ?
まず本エントリーの要点は、「消費者ももう少し考えた消費行動をとるべき」ということだと思いますが、その点に同意します。
ただ、使っている言葉などから、自分自身は“愚かな大衆ではない”というニュアンスが伝わってきます。マスゴミという表現もあまり使うべきではないと思います。タイトル通り喧嘩腰なのは伝わりますが、印象は良くないです。
個別の主張についてですが、
>安全度外視の価格競争をせざるを得ない程、無思慮に格安商品に群がる大衆消費者が、安全を商品価格に上乗せする事業者を破産させてきた事実があるのですから。
については、なにも消費者に限った話でなく、BtoBの世界でも見られます。翻って、潰れた業者は、財・サービスの購入者に対して安全性のアピール不足や顧客のターゲットの狙いが間違っていたとも言えます。
長文失礼しました。
そういうの表に出さないのに利用者の問題って言うのは違いますよ
消費者はちょっと安全に気をつけるべき→その程度で十分論
ここで終わってるのが残念だと思う。
しかもこれだけの薄っぺらい内容の文章をわざわざ過去の偉人の言葉や難しい言い回しで装飾しようとしてるのが・・・学部生時代の自分を見せ付けられているような気がして小恥ずかしくなってくる。
WaterForestが中高生っていうんならこのレベルの作文でもマルは貰えるんだろうけど。一応社会人なんだからもっと俯瞰的な視野から問題に臨んで、00年の規制緩和や福知山線の脱線事故なんかにも触れて最終的には資本主義経済の矛盾に言及してはじめてマトモな文章といえるんじゃないかね?
5,6年前までだったらいざ知らず、2012年にもなってカビの生えたような紋切り型の自己責任論をドヤ顔で垂れ流すのはどうかと思います。
沿岸部に住むのが自己責任とするならば、当然それと同じ理屈で
WaterForestも将来的に放射能の健康被害が自分の体に出ても政府に対しては
一切保障や文句は垂れないんだよね?
批判が一切お上に向かず、その代わりバス利用者に向かうってのが
いかにも世間一般で云われてる典型的日本人って感じだと思った。
持論が否定されたからといって、態度が変わるのは如何なものかと思います。
バス事故でお亡くなりになった方たちの命が、その程度と言ってるように感じ不愉快です。
ローコストの軽自動車で死んでやんの、ププッ
俺はベンツ乗るから!安全は金で買うんだぜ!
みたいで、見てて痛いです。
皆の目に留まる場所に書いたんですから、もうちょっと紳士に対応しましょうよ。
お互い大人でしょ。
どっかの某フランス王妃並に低所得層への理解無き一文ですね。
気楽なもんだ
たとえば、自分は東京-ハワイ間を年に一度正規料金のエコノミーで行けるぐらいの収入はありますが、ファーストクラスは無理だし、エコノミーでも毎月となると無理。
「毎月ハワイに行きたいから、格安航空機を使う」か、「行く頻度を抑えるか」の選択になる。
つまり、身の安全を犠牲にしてもやるか、身の安全を優先してやらないか の判断になる。
何を諦めるかは生活レベルによって違ってくると思います。
自分は命を大切にしたいから、格安は使わずに、コツコツ貯金して行けるようになったら行きます。 行けないなら諦めます。
事故に遭った人が悪い訳ではありません
少しでも安全性を信用出来る価格でしか物事を決定しないというのは個人の心構えの話であり、企業側が価格で安全性を保証している訳ではないのですから、その理屈はおかしいと思います
先に言っとくは
ざまあ
亡くなった7人はたまたま、お前じゃなかっただけだ。
お前はまだ生きているから生存は義務だの、死んだやつは馬鹿だの、言いたいように言える。
たまたま、お前は鹿の生肉に当たらなかったし、煙草も吸うようだけれど、たまたま、肺ガンにかかってない。人間、すべて上手にやることはできないんだよ。
車内設備などの、快適さを最優先に予算を分配したがために、(相対的に)人件費や整備費にしわ寄せが出てる場合もあります。
それであっても多少は安全性が向上してるとは思いますが、
事故り方によっては焼け石に水となりますし。
航空機ではなおさら顕著で、着陸ミスや墜落しようものなら、エコノミーでもファーストでも生存確率に大差はありませんし(-_-;)
資本のある会社は、市場を独占する過程で
価格破壊を行う。
すると、無理して安いものを買って食べて、頑張る奴が出てくる。
その結果、安いものしか買えないという状況が生まれる。
「安易に格安商品に飛びつく消費者は愚かだ」というだけなら、話は分からないでもありません。
しかし「生存権」という語を議論の俎上にあげてしまったことが、貴方の文章を不可解なものにしています。貴方は、本来道徳の次元にてなされるべき話題を、法の次元へと無理やり飛躍させてしまいました(両者は密接に連関し合うものでありますが、社会における両者の位相にはむろん相違がある)。
生存権は、愚昧と賢明とに関わらず全ての人に等しく保障されるものであり、また、そうであらねばなりません。一例を挙げましょう。
「とある山中で、軽装かつ明らかに経験不足のパーティーが遭難した。そのパーティーが県警に救助を求めた」というケース。貴方からすれば、この登山者は愚昧の極みということになるでしょう。しかし行政側には、この愚昧な登山者を保護する義務が、すなわち彼らの生存を能う限り可能ならしめる義務が生じます。当然税金から予算を割いた上で、です。「自己責任だから…」「登山者の認識不足が招いたことで…」では近代国家としての体をなしていません。要するに「自ら働いて自らを生かす義務を負いたくはないが、我には生存権があるのだから、誰かが我を生かせ」という人間にたいしても、生存権は保障されてしかるべきなのです。このような人間を道徳的を非難するのは至当なことですが、法の運用に差別化が設けられてはならないのです。この原則を崩すとすれば、まず愚昧と賢明の線引きを明確にしなければなりません。こと「生存権」という法的権利の問題でありますゆえ、この線引きと、「生存権」の運用とは統治機構の意に委ねられざるを得ません。
保護されるべき者とそうでない者が、権力によって区別される社会を貴方が望まれるのでしたら、私には何も言えることはありません。が、この類の社会が「自由」からは遠く隔たったものであることだけは疑いえないでしょう。
最後に。我々の社会は決して賢人の社会たりえない、ということを付言しておきましょう。
長文失礼いたしました。