結構好きで見ているテレビ番組のひとつに、NHKの「クローズアップ現代」があります。特定のテーマではなく、様々な現在の問題を取り上げるドキュメンタリーが好ましいです。
で、今日も夕食を採りながら見ていたわけですが。それを観て聊か頭に来ている私は、今日はそのネタでひとつ意見を書いてやろうと想った訳ですよ。
なお、今日のタイトルは、「和平は復活するか〜アラファト後の中東〜」でした。
はい、以前確か、この日記にも書きました。私はユダヤ人と云う奴等が大嫌いです。
今日のネタでも、当然、主役級の存在はユダヤ人でした。
番組の中で、ユダヤ人どもが偉そうに怒っていました。「和平が進展しないのはアラファトがテロを止めないからだ」とか言って。その前後のユダヤ人共の言葉に、カチンときてしまったのです。
何か大切なことを忘れていないか。そもそも、パレスチナの土地に侵略者として入り込んだのがユダヤ人共だろう。
現在、世界中の多くの人は忘れてしまっているのかも知れないが、そもそも問題の出発点はここにあるはずだ。パレスチナ人たちが暮らす土地を、何の根拠もなく自分たちの土地だと主張し、USAやUKの軍事力を背景に無理やり奪い取って建国された国、それがイスラエルだった筈だ。
あぁ、一応、根拠とやらはあったのだったっけ。奴等の「旧約聖書」とやらに書かれている、「神から約束された乳と蜜の流れる土地」と云う一文だ。それだけで、農耕能力的に豊かな人様の土地を臆面もなく「神から与えられた自分達の土地で、パレスチナ人はそれを不当に占領している」と主張したのだっけな。
そう、それは歴史的な裏付けですらなかった。流浪の民になる以前、彼等がそこに暮らしていたと云う訳では全然なかったのだ。ただ卑劣なほど純粋に、神の言葉とやらを元に「最も豊かな土地が自分たちの物」と決め付けたのだったね。
テロと呼ばれる行為にしたところで、元々はその侵略行為への抗議行動だったものだ。尤も、今でもパレスチナ人達は自分達の行動をテロだとは想っていない。殉教攻撃と呼んでいる。テロといわれては心外だろう。
今は暴力の連鎖とか言って、パレスチナ人は殉教攻撃、ユダヤ人共は軍隊による無差別攻撃。どっちもどっちぢゃないか。ユダヤ人共が偉そうに、「テロへの報復」なんて言ったところで納得なんてできるものか。自分たちの行動自体が、自分たちがテロと呼んでいるものと大差ない。
宗教的な不寛容と云うのは、世界中の不寛容の中でも最も度し難いものです。そこには、現実的な妥協点が存在しないから。そして、宗教的な妄信と云うのは最も厄介です。そこには、理性の欠片も存在しないから。何故なら、総ての事象の原因を神に預けることによって、究極の無責任と無反省、無知と無恥の状態にあってそれを省みることがないのだから。
そう、宗教的な不寛容。私が、常々ユダヤ人は大嫌いと公言するその最大の理由はここにある。
まったく、考えるだけでおぞましく想う。数千年に渡って、特定の国家を持たない民だった彼等の境遇は、確かに憐憫に値するだろう。しかし、その、数千年もの間、様々な土地でその土地の風習や宗教の中にあって、全くそれらと交わることなく、自分達の宗教と習慣を独善的に護り通してきたのだ。
そりゃ、歴史的に欧州各地で忌み嫌われてきて当然だろう。自分達のすぐ隣に住む人間が、全くその地域の常識から外れた生活様式や宗教を独善的に護って暮らしているのだ。それこそ不気味で理解不可能と云うヤツだ。
日本の諺に言う、「郷に入れば郷に従え」と全く相容れない存在、それがユダヤ人と云う奴等なのだ。
さて、ここでユダヤ人ユダヤ人と、散々な書き立てようだと想われる方もあるかもしれない。ユダヤ人の中にも、それぞれの地域に溶け込んで、その宗教や文化を許容して隣人と仲良くやっている人達もいるかもしれないぢゃないかと、言われるかもしれない。
しかし、ことユダヤ人に関する限り、それは在り得ない。何故なら、厳密にユダヤ人とは、母親がユダヤ教徒であるユダヤ教徒であるから。そしてそのユダヤ教徒は、そのそうでない人達から見れば異常な戒律を堅く護り、護らない人間を許容しないから。
と云う訳で、パレスチナ問題の解決のためには、とにかくユダヤ人共を黙らせろ、先に人様の土地を分捕った奴等に今更何も主張する権利はないと、私などは想っているわけです。
その上でとっととパレスチナ人に奪った土地を返し、改めて自分たちが生活する場所を僅か提供して欲しいと、頼む立場だろうと考えます。
なお、長々と私見を書いてきましたが。最後に。
以前の日記でも書きましたが、日本には表現の自由がある筈です。批判、非難はともかく、不当な圧力などによって、本人の承諾なしにこの日記が削除または改変されるようなことはないと、信じております。
また、本人にこの日記を削除または改変を迫る「自称正当な圧力」などというものも存在しないと、心より信じる次第です。
で、今日も夕食を採りながら見ていたわけですが。それを観て聊か頭に来ている私は、今日はそのネタでひとつ意見を書いてやろうと想った訳ですよ。
なお、今日のタイトルは、「和平は復活するか〜アラファト後の中東〜」でした。
はい、以前確か、この日記にも書きました。私はユダヤ人と云う奴等が大嫌いです。
今日のネタでも、当然、主役級の存在はユダヤ人でした。
番組の中で、ユダヤ人どもが偉そうに怒っていました。「和平が進展しないのはアラファトがテロを止めないからだ」とか言って。その前後のユダヤ人共の言葉に、カチンときてしまったのです。
何か大切なことを忘れていないか。そもそも、パレスチナの土地に侵略者として入り込んだのがユダヤ人共だろう。
現在、世界中の多くの人は忘れてしまっているのかも知れないが、そもそも問題の出発点はここにあるはずだ。パレスチナ人たちが暮らす土地を、何の根拠もなく自分たちの土地だと主張し、USAやUKの軍事力を背景に無理やり奪い取って建国された国、それがイスラエルだった筈だ。
あぁ、一応、根拠とやらはあったのだったっけ。奴等の「旧約聖書」とやらに書かれている、「神から約束された乳と蜜の流れる土地」と云う一文だ。それだけで、農耕能力的に豊かな人様の土地を臆面もなく「神から与えられた自分達の土地で、パレスチナ人はそれを不当に占領している」と主張したのだっけな。
そう、それは歴史的な裏付けですらなかった。流浪の民になる以前、彼等がそこに暮らしていたと云う訳では全然なかったのだ。ただ卑劣なほど純粋に、神の言葉とやらを元に「最も豊かな土地が自分たちの物」と決め付けたのだったね。
テロと呼ばれる行為にしたところで、元々はその侵略行為への抗議行動だったものだ。尤も、今でもパレスチナ人達は自分達の行動をテロだとは想っていない。殉教攻撃と呼んでいる。テロといわれては心外だろう。
今は暴力の連鎖とか言って、パレスチナ人は殉教攻撃、ユダヤ人共は軍隊による無差別攻撃。どっちもどっちぢゃないか。ユダヤ人共が偉そうに、「テロへの報復」なんて言ったところで納得なんてできるものか。自分たちの行動自体が、自分たちがテロと呼んでいるものと大差ない。
宗教的な不寛容と云うのは、世界中の不寛容の中でも最も度し難いものです。そこには、現実的な妥協点が存在しないから。そして、宗教的な妄信と云うのは最も厄介です。そこには、理性の欠片も存在しないから。何故なら、総ての事象の原因を神に預けることによって、究極の無責任と無反省、無知と無恥の状態にあってそれを省みることがないのだから。
そう、宗教的な不寛容。私が、常々ユダヤ人は大嫌いと公言するその最大の理由はここにある。
まったく、考えるだけでおぞましく想う。数千年に渡って、特定の国家を持たない民だった彼等の境遇は、確かに憐憫に値するだろう。しかし、その、数千年もの間、様々な土地でその土地の風習や宗教の中にあって、全くそれらと交わることなく、自分達の宗教と習慣を独善的に護り通してきたのだ。
そりゃ、歴史的に欧州各地で忌み嫌われてきて当然だろう。自分達のすぐ隣に住む人間が、全くその地域の常識から外れた生活様式や宗教を独善的に護って暮らしているのだ。それこそ不気味で理解不可能と云うヤツだ。
日本の諺に言う、「郷に入れば郷に従え」と全く相容れない存在、それがユダヤ人と云う奴等なのだ。
さて、ここでユダヤ人ユダヤ人と、散々な書き立てようだと想われる方もあるかもしれない。ユダヤ人の中にも、それぞれの地域に溶け込んで、その宗教や文化を許容して隣人と仲良くやっている人達もいるかもしれないぢゃないかと、言われるかもしれない。
しかし、ことユダヤ人に関する限り、それは在り得ない。何故なら、厳密にユダヤ人とは、母親がユダヤ教徒であるユダヤ教徒であるから。そしてそのユダヤ教徒は、そのそうでない人達から見れば異常な戒律を堅く護り、護らない人間を許容しないから。
と云う訳で、パレスチナ問題の解決のためには、とにかくユダヤ人共を黙らせろ、先に人様の土地を分捕った奴等に今更何も主張する権利はないと、私などは想っているわけです。
その上でとっととパレスチナ人に奪った土地を返し、改めて自分たちが生活する場所を僅か提供して欲しいと、頼む立場だろうと考えます。
なお、長々と私見を書いてきましたが。最後に。
以前の日記でも書きましたが、日本には表現の自由がある筈です。批判、非難はともかく、不当な圧力などによって、本人の承諾なしにこの日記が削除または改変されるようなことはないと、信じております。
また、本人にこの日記を削除または改変を迫る「自称正当な圧力」などというものも存在しないと、心より信じる次第です。
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