こうして文章を書いていると、時々、その影響力について考えることがあります。
まだまだ、私のこの文章なんて読んでくれている方のほうが少ないので、影響力なんて考慮するほどのレベルでもないのでしょうけれど。それでも、人に何かを伝えようとして文章を書く以上、考えなければならないことがあります。

 昨日の日記で、「言葉使い」と云う言葉を使いました。一般的な「ことばづかい」ではありません。魔法使いのような、「ことばつかい」です。言葉を使う者のことです。10年ほど前から、この言葉を私は好んで使います。
子どもの頃からなんとなく文章を書くことが好きで、20歳になる前には文筆業に就きたいと想っていました。文章の作り方などを独学ですが勉強し、実際には機会と実力に恵まれずに、夢は未だ道半ばです。

 その昔、定期的に手書きで手紙なんて書いていた頃がありました。まぁ、ワープロなんて一般のご家庭にまでは普及していなかった頃のことです。未だ或る意味幼かった私ですが、手紙に記されている言葉以上に、手書きされた文字から伝わるものを感じた覚えがあります。
見慣れた文字の崩れ具合などから、書き手の心理や、嘘や本当が見えること、ありますよね。

 それから幾年か経て、パソコン通信なんてモノを趣味にしていた頃がありました。インターネット以前のシロモノです。毎日のようにキーボードを叩いては、見知らぬ人や遠くに住む友人とあれこれ交流していました。
その頃には私はもう仕事をしていて、窓口業務の中で口から出るひと言の恐ろしさをよく知っていましたので、文章にもかなり気を使っていました。喋り言葉と書き言葉は違います。これは小説家を志すなら基本中の基本です。それとともに、深く考えないで記す一編の文章が、誰かを傷付けることにならないか、そういったことを常に考えていました。
更に、ネットと云うものは、文字が手書きでない以上、文字からその心理状態を読むことができない。嘘を吐こうと思えば吐き通すことができるツールなのだろうと気付かされました。
そこに生来の性格が加わり、男でありながら一人称を私として、できるだけ丁寧な言葉で、でも自分の意見は100%伝える、今の文章のスタイルを作ってきました。
そんな中で、無駄に飾りすぎると、丁寧を通り越して文章は説得力を失うこと、喋り言葉と書き言葉の区別などの最低限の文章の基本を守らなければ、その文章は人を傷付け過ぎることがあること、そんなことを学んできたような気がしています。

 そして、最初から架空の文章だと想っているものは別ですが、日記や自伝などでも、どうにも嘘くさい文章と云うものは存在しますよね。或いは、例えば、よく知っている人間のBLOGを読むとき、その文章の書き方で直感的に嘘がわかるようなこと、ありますよね。文章には、書かれたこと意外を伝える不思議な力があるように、私は想うのです。

 私は、私と云う人間の実像が伝わるような文章を書きたいと想っていますし、その努力をしているつもりです。
私が自分の頭で考えたこと、想っていることを、そんなことを想う私自身の人格も含めて発信するために、文章を書きたいです。そして、それが可能な能力、或いはその能力を持つ人のことを、「言葉使い」と勝手に定義しているのです…

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