学習と教育と、本当に大切なこと
2004年8月4日 エッセイ 私は、車で通勤しています。片道30分程度の距離なのですが、その通勤路に、学習塾が2件ほど、あります。
行きはいいのですが、帰りはその真前を通ることになります。そして、ちょうどその時間は、それらの学習塾の生徒の入れ替え時間に当たるらしいのです。
1件は、片側1車線の道路に、もう1件は、片側2車線の道路に、それぞれ面しています。
手っ取り早く、飾らず、ひと言で言うと、
子どもを送迎する違法駐車の群れが鬱陶しくてたまらない!!
目の前で急に減速して、路駐を始める車。しかも1台どころぢゃない。片側1車線、中央分離帯のないバス通りでやられるから最悪だ。この莫迦親共、社会常識というものがないのか!!…などと腹立たしいのですよ。
そこで、ふと想ってしまったことがあるのですね。
昨今の莫迦餓鬼共のワケのワカラナイ事件が多いのも、遠因にはこういったことがあるのではないかと。
確かに近頃では、物騒な事件も多くて、夕方から夜にかけて、たとえ学習塾といえども子どもだけで通わせることに不安を感じる親も多いことでしょう。
私は20年ほど前、終わりは夜9時過ぎになる学習塾に片道30分以上かけて自転車で通っていたので、よく理解できませんけれど。
ともあれ、塾に通わせるのに、車で送迎をする。多々親莫迦な気がしますが、それは、まぁ、いいでしょう。
しかし、だよ、それは違法駐車(一時停車だと主張する人もいるかもしれないが、社会の大迷惑であることに、全く、欠片ほども、かわりはない)を正当化する理由にはなりません。
親が社会的不道徳をこうやって日常的に示している子どもが、学習塾で学問を身に着けて、それがいったいなんになるというの?
学問を身に着けるより先に、覚えなければいけないものがあるのではないですか?
送迎ついでに日常的に、恒常的に自分が社会のルールを平然と破っている姿を子どもに示している親は、なんにも思うところはありませんか?
人が人であるための当たり前のこと。他者に迷惑をかけないということ、自分が行うことの周囲への影響を常に考慮すること、そういった人間の基本があまりにも軽んじられていませんか。
親には、人間としての基本を子どもに教える義務があります。逆に、それさえ教えておけばいいんです。学問はそれを学ぶために学校があります。義務教育です。親が親としての必要最低限を忘れて、そのくせ学問だけを子どもに望み、その行動をもって莫迦な教育を施してしまう。あまつさえ、学校に不当な文句をたれる親など最悪ですね。
昔から使われている陳腐な言葉があります。「子どもは宝」です。そのとおり。だからこそ、子どもには正しいことを教えなければいけません。学問などよりも優先的に。
ふと、帰り道の車の中で、苛々しながら、そんなことを考えたのですよ。
行きはいいのですが、帰りはその真前を通ることになります。そして、ちょうどその時間は、それらの学習塾の生徒の入れ替え時間に当たるらしいのです。
1件は、片側1車線の道路に、もう1件は、片側2車線の道路に、それぞれ面しています。
手っ取り早く、飾らず、ひと言で言うと、
子どもを送迎する違法駐車の群れが鬱陶しくてたまらない!!
目の前で急に減速して、路駐を始める車。しかも1台どころぢゃない。片側1車線、中央分離帯のないバス通りでやられるから最悪だ。この莫迦親共、社会常識というものがないのか!!…などと腹立たしいのですよ。
そこで、ふと想ってしまったことがあるのですね。
昨今の莫迦餓鬼共のワケのワカラナイ事件が多いのも、遠因にはこういったことがあるのではないかと。
確かに近頃では、物騒な事件も多くて、夕方から夜にかけて、たとえ学習塾といえども子どもだけで通わせることに不安を感じる親も多いことでしょう。
私は20年ほど前、終わりは夜9時過ぎになる学習塾に片道30分以上かけて自転車で通っていたので、よく理解できませんけれど。
ともあれ、塾に通わせるのに、車で送迎をする。多々親莫迦な気がしますが、それは、まぁ、いいでしょう。
しかし、だよ、それは違法駐車(一時停車だと主張する人もいるかもしれないが、社会の大迷惑であることに、全く、欠片ほども、かわりはない)を正当化する理由にはなりません。
親が社会的不道徳をこうやって日常的に示している子どもが、学習塾で学問を身に着けて、それがいったいなんになるというの?
学問を身に着けるより先に、覚えなければいけないものがあるのではないですか?
送迎ついでに日常的に、恒常的に自分が社会のルールを平然と破っている姿を子どもに示している親は、なんにも思うところはありませんか?
人が人であるための当たり前のこと。他者に迷惑をかけないということ、自分が行うことの周囲への影響を常に考慮すること、そういった人間の基本があまりにも軽んじられていませんか。
親には、人間としての基本を子どもに教える義務があります。逆に、それさえ教えておけばいいんです。学問はそれを学ぶために学校があります。義務教育です。親が親としての必要最低限を忘れて、そのくせ学問だけを子どもに望み、その行動をもって莫迦な教育を施してしまう。あまつさえ、学校に不当な文句をたれる親など最悪ですね。
昔から使われている陳腐な言葉があります。「子どもは宝」です。そのとおり。だからこそ、子どもには正しいことを教えなければいけません。学問などよりも優先的に。
ふと、帰り道の車の中で、苛々しながら、そんなことを考えたのですよ。
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